母、礼子が21日午後4時に安らかに逝きました。
まだ、頭の整理がついていないのですが、忘れるのもなんなので、いま考え得る事
を綴ってみたいな、とおもいます。


私が帰国したのが、9月9日。そのころはまだ、お話もできて、時々体も起こすことができました。
痛みがひどく、見ている私はちょっと参ってしまうほどでした。
ほかの家族は冷静に対応しているのに、私は感情移入が激しいのか、見ていてとてもつらかった。


薬のせいで、不思議発言も多くなっていました。例えば、

「先生も組織の一員でしょ。」「私も勝手に組織にいれられちゃったんですよ」
「英輔さんが勝手にサインしちゃって」


どうも、怪しい組織に操られているかの錯覚に陥っていたらしい。

私「でも、先生たちはお母さんを助けてくれているから、良い組織なんじゃない?」と言ったら
不服ながらうなずいていました。


痛さがマックスのころは
「先生、どうしたらいいでしょうね。私をなにかにぶらさげて、ゆすってくれたら良くなるかしら?」
「足をぶすっと切って血がばーっと出たらいいかも」

などと、恐ろしい発言も。
そのころから鎮静剤が増えたと思います。


私に続き兄も帰国。
緩和ケアの先生は母の痛みを取りながらも、家族と話ができるようにと一生懸命にモルヒネと鎮静剤の調整をしてくださいました。
兄も母とお話ができました。「おやふこうでごめんねと」言った兄に大きな声で「そんなことない!」と母は否定していました。兄は救われたことでしょうね。
父が見舞いにいくと「私のだんなさん、いい顔」といったりもしました。

私は最初のころは「役立たず」(←実際介護が下手なので。。。)となじられもしましたが、最後には「ここに(胸を指して)有り難うって書いてあるよ」と言ってくれました。


最期の3,4日は昏々と眠っていました。
私は毎日不安で仕方なかったのですが、父を含めほか2名は夜も良く眠り、淡々としています。


「夜、電話が来るのが恐ろしいなあ。夜に逝ってしまうのはいやだな。」と思っていた私。
母は昼間のうちに逝ってくれました。
その日は母のグループの展覧会最終日。展覧会が終わった時刻とほぼ一緒でした。
父は最期のころも、時計を見て、母の呼吸の回数などを記録、分析しておりました。


静かに静かに息を引き取った母。看護婦さんが来て、「心拍が0になっています」と言ったときも
私以外は静かにその事実を受け止めていましたが、私は泣いていました。周りが泣いていないので、なるべく静かに泣くように努力しましたけどね。
(へんな家族ですよね)


病院から遺体を搬送する際に、病院の出口にお焼香をする場所があり、家族、医療関係者の方がお焼香をしてから出発、というのが普通らしいのですが、私、姉、父はお焼香を拒否。私と姉はキリスト教のため、父は一切の儀式がきらいなので。兄が渋々不器用にお焼香の真似。
お医者様はあせっておりました。
医者「すみません。まだ色々な形に対応できるシステムができてないもので。。。」と恐縮。


葬儀屋でも最低限のコースでやっていただきました。


父がとにかく火葬までは家族だけで済ませたいという希望だったので、みなさまには報告せず。

23日午後から色々な方に報告をさせてもらいました。


葬儀もしたくないという父を説得し、「お別れの会」をすることにしました。
そうでもしないと、弔問客が自宅にどどっと訪れること間違いなしで、そのほうが対応が大変になるだろうと思うからです。

明日、お別れの会 になるので、その後、報告しますね。


母の残していった思い出も多いのですが、物も相当多いので、この片づけを考えると頭がクラクラします。
私は7日までいるので、できるだけ、お掃除をしていきたいと思っています。
でも、アーミデールに帰ったら、新しい家の片付けが待っています。この数ヶ月は掃除、整理整頓、そんなことに追われる生活になりそうです。
その合間合間に、母のことを考え、またつづっていけたらと思います。


なお、火葬には私、行きませんでした。
火葬場が非常に嫌いなことと、その日、同窓会が東京であったという理由からです。
これについては、また、いづれ日記に書いてみたいと思います。


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